あの徳川家康をも退けた男

今日はあの徳川家康をも退けた男、真田昌幸について紹介していきたいと思います。。。

田氏の家臣時代

昌幸は、最初武田氏の家臣でした。

そこで数々の戦績を残しました。

裏切りまくった時代

武田氏が滅亡すると、昌幸は織田政権に組み込まれ織田氏重臣滝川一益の与力武将となります。しかし信長が、本能寺の変で戦死すると、昌幸は無主になった武田氏旧領を取り返すことを考えます。

しかし、武田氏旧領を狙っている大名は多くいました。徳川家康上杉景勝北条氏直などです。

昌幸は、まず上杉景勝に臣従します。しかし、その2週間後今度は北条氏直臣従します。

しかし、その1ヶ月後、今度は北条氏を裏切り徳川家康臣従します。

しかし、その2ヶ月後、また上杉景勝に臣従します。

なんとこの短期間で君主を3回も変えたのです!

そのため昌幸は、誰からも信用されなくなりました笑

ついにあの徳川家康を破る!

徳川家康真田昌幸の戦いは上田合戦と呼ばれています。昌幸が上田城を守る側、家康が上田城を攻める側です。

上田城は1583年に昌幸が作りました。(正確には大工が作りました)

1585年、第一次上田合戦が起こります。昌幸側の兵力は2000、それに対して徳川側の兵力は7845と、圧倒的な兵力差がありました。

昌幸は、徳川の兵を二の丸まで寄せ付け囲い込み撃退します。そして撤退する徳川を追撃し川を氾濫させ、徳川側は1300人もの犠牲者を出します。

それに対して昌幸側の犠牲者は40人と大勝利を収めます。

 

 

 

 

 

絵が雑なのは許してください笑

第二次上田合戦

昌幸はこの戦いのあと豊臣氏に臣従しています。(4回目の君主変更笑)

そして家康が豊臣氏に臣従します。

豊臣秀吉が死去すると、関ヶ原の戦いが起こります。

当初、昌幸は東軍についていましたが西軍に寝返ります

東軍は西軍を倒すため、二手に分かれて西に進みます。



昌幸の目的は上田城で秀忠軍を足止めすることで関ヶ原で西軍有利にすることでした。

そのために時間稼ぎが必要だったわけです。

まずは、秀忠に降伏すると伝えます。

しかし1日後、降伏はせず戦うと宣言します。

この1日の間に昌幸は戦う準備を進めたのです。

これに秀忠は、激怒。

昌幸vs秀忠 の戦闘が始まります。

昌幸は、徳川軍を挑発し城におびき寄せ弓で攻撃します。

また、城の側面に控えていた部隊で不意打ちします。

援軍も、川を増水させ溺死させます。

 

 

 

 

このあと秀忠は上田城攻めを諦め関ヶ原に向かいます。

こうして第二次上田合戦も昌幸の勝利で終わりました。

 

 

 

 

まとめ

どうだったでしょうか。

裏切りとだましを豊富に使った昌幸の作戦

ずるく、人間性に欠ける部分がありますが、よく言えば頭が良いといったところでしょうか笑。

つまりずる賢いということです笑。

家康をを破ったずる賢さを後世に伝えていきたいものです。

 

 

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